矢車SITE ― 改訂2022年11月

写真を主とした本人の日記代わりのようなブログで、つぶやきのようなものですが、 当人の別ブログ記事の更新紹介も行っています。

いったん別のサイトに移転した本ブログのメイン記事を本サイトに戻しました。部分的にTwitter投稿を一定期間を区切って掲載したものが含まれます。

柄谷行人著『反文学論』の一読に思う

この日は目的地への途中で下車し、桂離宮の周囲を歩いてみた。真昼だが閑散としていた。

 

もう閉門前の六波羅蜜寺。私がもっとも京都らしさを感じる美しいお寺

京の五条の橋の上。五条の駅から帰るとするか

京都へ行った日の前日、日曜午後の近隣の公園にて

たぶん京都へ行った後の日曜日。そろそろ夕方でもう暑くはない。風邪を引かぬように!

最近の夕方、最後のサービス噴射か。時間も遅く小雨で人もまばらだったが。


つい最近、柄谷行人著『反文学論』を一読した。これには二つの動機があった。一つは、私はこれまで同時代の日本文学を殆ど読んでこなかったという理由である。最近になって大江健三郎死去のニュースなどをきっかけに、この、私の同時代といえる時期の純文学と言われるものはどういうものだったのか、多少興味を持ち出した、ということがある。

もう一つの動機は柄谷行人という人について、今まで、有名な人文系知識人の一人という程度にしか知らなかったのだが、最近、いくつかのソースから飛び込んできた情報で、哲学者としてひときわ優れた業績を持つという評判の人であることを知り、それなら、何か手短な本一冊からでも読んでみたいものだと思ってネット販売サイトで調べたところ、ちょうど『反文学論』が、上述のとおり私がこれまで知ることのなかった私にとっての同時代純文学を扱っていることがわかったので、手ごろな選択となったというこてになる。

日本文学に関して、本書によっていろいろと触発されたことや、これがきっかけとなって思い起こしたり反省したり、改めて考え始めたことなど、すべてを書きだそうとしても始まらないので、とりあえず、何か一つのことでも断片的にでも書き留めておこうと思う。

今回読んだのは講談社文芸文庫版で、本文は約200ページ。その内容は、解説(池田雄一)によると「本書は、柄谷行人によって、『東京新聞』等に連載された「文芸時評」を、一冊にまとめたものである。その期間は、1977年3月から1978年11月までの1年9か月である」。この期間はちょうど私の30歳頃にあたる。

ということで、極めて短い期間であるけれども、22章を構成する各章は作家名や作品名ではなく、例えば『言葉について』とか、『自己について』などのテーマ別になっていて、その点で、私のような、いわば文学通ではない、というか、そういう小説を全く読んでいない者にとってもとっつきやすいものになっている。とは言え、それだけに論じられている内容は、本質論と言えば良いのか、難しい。どの章についても表題のように一読だけで本書に内容についてあれこれ語るのは無理である。部分的には、2,3の章を読み返しはしたが、結局のところ、最も多く時間をかけて考えたことは、冒頭でも述べた通り、私がなぜ、自分の同時代純文学を読んでこなかったのか、という問題を改めて考えさせられたということになるだろう(なぜ小説家になることを目指さなかったのだろうとまでは考えないが)。特にその点で後悔しているわけでも、今からでも改めて多くの作品を読んでみたい思うわけでもないが、それを考えること自体、私にとって意味深いのである。

というのも、ここで思いおこしたのは、私の別のブログ『意味の周辺』

https://imimemo.blogspot.com/

で今、書き続けているシリーズ記事があり、最新の記事は、私と科学、自然科学との関わりを反省するように再考察するものになっていたので、ある意味、その記事の内容と表裏をなす問題であることに気付いたからである。

もっと広範に考えをめぐらすと、人が生涯を通じて関心と興味を寄せる文化的な対象はいろいろあり、中にはそれが職業に結び付くという幸運な場合がある。そういう興味の対象の選択ということは、考え方によっては人生の主軸と見なしうるともいえる。そういう多様な、文化的な興味の対象もいろいろとカテゴリーで分けることもできるわけだが、一つの重要な分け方として、小学校から始まり、大学にまで至る学校教育の科目として分類できるものがあり、それらの多くは一般に学問や芸術の分野と見なされている諸々とも重なる部分が大きい。もちろん、そういう重なり合いはかなり複雑で、たとえば日本の小中学校では『理科』という科目がある。しかし世界的に、中国も含めて、それに相当する用語は『科学』ないしはScienceである。

という次第で、私の場合に限らず、この「同時代純文学」への無関心ないし拒否という傾向は、他の対象への関心や距離関係と複雑な相関関係あるいは関数関係という見方で考察できるだろうと思う。たとえば科学への関心が高まるにつれて、その分、文学への関心が薄れるといった現象である。もちろん、それは個人によって多様である。一人ひとり異なるともいえるが、一方で人類あるいは民族、国民、部族で普遍的な傾向もあるに違いない。

以上は、本題の本の内容自体とは直接には関係のないことになってしまった。そこで本書の内容に直接関係を持つこととして、本書の一つの章から触発された一件についてメモしておこうと思う。それは『自己について』という一章の内容に関するものである。ここで著者は、志賀直哉について、次のように重要な言及を行っている。この章は次のように始まっている。『雑誌「文体」に、「奈良時代」と題する、尾崎一雄をと安岡正太郎の対談がある。むろん奈良朝のことではなく、志賀直哉が奈良にいた時代のことで、そこに、「昭和文学」の一つの発祥をみるという視点がとられている。この視点は正しいと思う』。

このように、著者は日本文学において志賀直哉を特に重視していることがわかるが、この点で私は意外であったと同時に、新鮮な印象を持った。というのは、私は志賀直哉の作品を事実上、一作も読んだことがなく、ただ名前と、『暗夜行路』という小説の題名と、印象的な老年の肖像写真だけの印象しかもっていなかったからである。実は、私の高校時代で用いた現代国語の教科書には『暗夜行路』からかなり長い抜粋があったのである。しかし担当の国語の先生はそこを完全に飛ばしてしまったのだった。「こういう主観的な文章は読んでも仕方がないので云々」と言ったように、いまだに記憶している。私自身は、これは有名な作品名でもあり、多少は先生の講義を楽しみにしていたにも関わらず、それ以後は自分で読むこともなく、現在に至った次第なのだ。この間、冒頭で述べたように同時代の純文学は全く読まなかったが、それ以前、簡単に言って戦前の日本文学を全く読まなかったわけでもない。もっとも量的には少なく、多少とも網羅的に読んだと言えるのは鴎外と漱石だけであった。それ以外ではむしろ詩人の方に興味を持ったが、実際に読んだものは限られる。また詩人に関しても同時代の詩人には小説家と同様かそれ以上に、ほとんど興味を持てず、というよりも興味を持とうともしなかった。

ここでちょっと脱線になるが、この時代、つまり私の成人以後の同時代に、日本で最も影響力を拡大してきた西洋の芸術と言えば、いわゆるクラシック音楽ではないだろうか?外国の状況はよく知らないが、これは中国や朝鮮、韓国、その他のアジア諸国でも同じではないだろうかと思われる。私自身は環境のせいもあって職業的にはもちろん、趣味としても演奏や作曲の訓練を受けたこともなく、習慣的に演奏会に行くこともなかったが、放送や録音を通じて受けたクラシック音楽インパクトは相当なものだと思う。少なくとも私の場合、この間、同時代の詩人に関心を持てなかったのは、クラシック音楽の魅力と力にかき消されてしまったのではないかとも思われる。

そんな状況ではあったが、比較的最近、5,6年前になるが、青空文庫を利用して藤村の『夜明け前』に挑戦して、読了した。藤村の詩はもちろん好きだったが、小説はこの時が初めてである。有名な破戒も読むのは気が重く、読んでいなかった。『夜明け前』を読むきっかけになったのは歴史的な関心からで、普通に小説を読みたいというような気持ではあまりなかった。

という次第で、この期に及んで志賀直哉の暗夜行路を読もうか、と思いだしたのは、全く本書に触発された結果である。残念ながら、著作権が切れていないので青空文庫にはないが、今アマゾンで調べてみると、文庫本で、1,000円あまり、キンドル版ではゼロ円、中古品では94円から最高で2,600円台。中古から選んでみよう。夜明け前は青空文庫だったので電子書籍だったが、やはりこういうものは紙の本で読みたいと改めて思ったことだった。

 

斜面と丘と広葉樹

一昨年までは行ったことがなかった公園で、名前は霞ヶ丘公園という。私の行きつけの公園である浜寺公園は府立の大公園だが、こちらは市立の公園で規模は浜寺公園の十分の一くらいか。子供の簡単な遊具くらいしか施設がないが、斜面と丘と広葉樹の変化に富む眺めが好ましい。端的に言って私は斜面と丘と広葉樹が好きなのだ。

道路に面した斜面の入り口、と言っても、何もしるしはないが

この斜面を登ると、芝生の中に数か所、ポツンぽつんと離れて広葉樹が散在している。なぜか二本ずつ植わっているが、一本のように見える。これはたぶん楠だろう。

新緑の楠(たぶん)

こちらは何の木か知らない。やはり新緑だと思うが、かなり緑が濃くなっている。

こちらも二本のセット

芝生周辺の木々

たいてい、子供たちがいる

藤棚あり

ではまた。




















浜寺公園は広大で、全体として平坦な松林の中にぶぶん

中之島公園ー久しぶりだが初めて同然

先日、短時間の所用の帰り、すぐに帰るm野茂もったいないので、歩いて御堂筋を北上して中の島公園に立ち寄った。

中之島公園バラ園東側

まだ大阪府外で一人暮らしを始めるまでの若かった一時期、中之島を横断する大通りを通ることは良くあったが、中之島公園に立ち寄ることは殆どなく、バラ園も今回初めて入ってみた次第だが、バラ園のバラは殆どまだ、蕾状態であった。

まだつぼみばかりのバラ

バラ園エントランス

殆ど毎日のように行く浜寺公園中之島公園よりも広大で、これも良い公園だが、見栄えのする建築や文化施設がないので物足りない。その点、こちらはさすがに都市公園の充実感がある。

中央公会堂正面

側面から見るのもなかなか良い。

高速道路下から

島から対岸を見る

同上

同上

同上

同上

公園東端に向かって進む

同上

公園東端付近から東方を遠望

同上

同上

同上

バラ園付近にもどって

帰り道で振り返る

市庁舎。屋根らしきものが見える。屋根はある方が建築としては良い。

全体に東京の日比谷公園に似た環境と構成だが、周囲の高層ビルは日比谷辺りよりも規模が小さい。けれどもこちらの方が、デザイン的に風情がある。公園の設計や庭園のデザインもこちらの方が優れているように思う。東京に居たときは日比谷公園にも時々行ったことがあるが、あまり好きな場所でもなかった。上野公園はまた規模が一段大きく比較の対象にはならないが、不忍池公園はやや似たところがある。中之島公園は規模としては日比谷公園不忍池公園の中間くらいかな。もっとも中之島全体は上野全体に比べて都会的ではあるが。

最近の私が毎日のようにぶらついている浜寺公園はほぼ全体が芝生と松林で、公園としてはユニークである。都市公園とは言えず郊外の公園ということになろうか。周囲の片側が住宅地、他方に広い水路があるもののその向こうは工業コンビナートで、やはり大型の建築や文化的な施設に欠け、物足りないところがある。そういう点で、たまにはこのような公園に来るのも楽しいものである。

以上、4月の10日頃のことでした。

初めての自著出版を機に約9か月振りの更新

本ブログは前回記事までココログのサイトで更新してきましたが今回からまた以前にもどって、はてなブログから更新を続けます。ココログのサイトでは引き続き別のブログ「人生と日々の宝物」の更新を続けています。

さて、

 

この日は夕方だったが、予想外のにわか雨に降られ、少し濡れた状態で、公園のトイレの軒先という雨宿りにはあまりふさわしくないところでしばらく待った後、ようやく雨が収まったところで帰途に遭遇した虹の光景である。

住宅街の合間に出現した10月の虹

 

その虹の上部と反対側

以下は前日か前々日に同公園で遭遇した光景

何やらポンプが一生懸命に空気を送り続けているが・・・

中に子供たちが入って何をしている?

でかかわいい

配色が結構ぴったりと嵌っている。明るい青とピンクの胴体に赤と緑の小さな腕、赤鼻と赤い帽子に濃い黄色の両耳。それに紫の台座。すべての原色がそろい、適切に配分されている。加えて、この大きさは結構インパクトがある。広告がないのもいいが、どこがこういうサービスを提供しているのだろうか?この日だったか別の日だったか、隣でにぎやかに手品をやっていた。

 

実はいま、私の生家に一人住んでいた姉が引っ越し、古いあばら家を取り壊すための準備の最中である。そんな中で、私が幼い時に母が買ってくれた5月人形を埃まみれの中から救出して今の住居に持ってきた。実のところ、この人形も私の方から母にねだったものである。子供のころから結構人形好きで、人形劇も好きであった。最近は人間の俳優が演じるドラマより人形劇の方が好ましく思えるときがある。それにしても日本の人形文化には独特の伝統があるように思われる。

こちらも正真正銘の可愛さ

かつて、まじまじと顔を見た記憶もなく、写真に撮ったことなどなかったが、こうしてみるとなかなか味わい深い顔かたちである。もとより彫りの浅い顔ではあるが、微妙な肉付けが優れているように思える。もとより高級品では全くないけれども。

60年くらい前の金太郎

付属物は劣化が激しく、松の枝や菖蒲の花も見る影もないが、人形自体は衣装が若干色あせているものの、ほとんど劣化していない。やはり人形は捨てられない。

 

以下は、このほど初めて出版を果たした自著

タイトル:Resolution of Mirror Problem、 出版元:LAMBERT Academic Publishing

同書、裏表紙

本書出版の経緯については筆者の別ブログ『ブログ・発見の発見』に記載しています。

 

これは書籍として初めての出版となったが、それが英語の著作で外国の出版社から刊行されることになるとは、かつては夢想だにしなかった。これは何といってもコンピューター技術とインターネット環境によって与えられた賜物だろう。とは言え、何らかの本を日本語で刊行することは若いときからの夢であったことは確かではある。当面はこの本の日本語版を遠からず出版することが願いである。さらにはもっと大部の著作を刊行できることを願ってはいるが。

 

以下、10月までに撮った公園内外の写真の数枚を脈絡なく掲載

 

 

 

 

 

 

以下は隣町の神社で秋祭りの準備中

 

以下は9月に遭遇した夕焼け雲のいくつか

 

8月の雲

 

8月に徒歩で訪れた荏原寺

 

7月の公園プールで垣間見た光景および7月と6月の睡蓮の池とあやめ

 

何十年ぶりかの住吉神社

昨年の6月に大阪府内の現在の住所に引っ越してもう半年以上。東京に住んでいたときも結構、神社にはよく行き、スマホを使うようになってからはそれらの写真を掲載しながら記事を書くことも多かった。

こちらに来てから、また来る途中でも、結構な数の神社を訪れ、当然参拝もしたが、本ブログに掲載する機会を逸してしまったな。今回、それでももう半月前になってしまったが、ふと思い起こし、阪堺電車に乗って住吉大社を訪れたときの写真をブログに残しておこうと思う。

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これは阪堺電車の線路を挟んで撮った写真。

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実は、住吉神社は、私が最初に行った記憶のある神社なのである。最初というからにはもちろん子供の時である。それ以後も二十歳過ぎまで大阪府内に住んでいたから、一度ならず行ったとは思うが、それでも最初に行ったとき以外の記憶はないのが不思議。冒頭の太鼓橋は有名でもあり、もちろん正確ではないが基本的な記憶があるけれども、この門の姿は記憶がないのである。それにしても、こういう門の形式は何となく異界的な趣がある。ちょうど今しがた気付いたのだが、祭神は海に縁のある神様でもあり、竜宮城風の趣も感じられる。

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何故かどの社殿も正面が幕で覆われ、中が拝めなかったのが少々興ざめだった。いつもこうなのだろうか?

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こういう風にいくつもの社殿があって、赤い柵で囲まれている景観は確かに記憶通りだが、いま眺めてみると、やはり、昔、子供の頃に見え、感じられたよりもずっと美しく見える。建築自体が多少とも変わったかどうかはわからないが。

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昨年まで、東京に住んでいたときに行くことが出来た神社の殆どは、建築的にはみな同じような造りで、権現造りというそうだが、はっきり言ってつまらないとは言わないまでも単調で、変化がほしいと思ったことも多かった。秩父神社三峰神社まで足をのばした時もそうだった。明治神宮靖国神社は明治以降だしね。東京から西に移動するとむしろ権現造りは少ないように見える。引っ越す途中で立ち寄った諏訪大社もそうだった。この間に訪れた、結構多様な神社についてはまた改めてこのブログでまとめてみたいと思っている。

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帰りに乗った阪堺電車は、最も古いいわば骨董的車両だった。

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はじめの方で書いたように、私が初めて住吉神社に参拝したのは子供の頃、まだ小学校に行くか行かないかという年だったはずである。その時は大きく年の離れた姉が連れて行ってくれたのだった。姉は記憶していないようだが、私の記憶では、私のためにおみくじを引いてくれて、中身の意味を読み聞かせてくれたように記憶している。あれから60年位も経た今は当然、一人でおみくじを引いてみた。中身は、気のせいか当時の御籤に続くもののように取れないこともなかった。もっとも当時は子供向けの御籤を買ってくれたのだろうと思うが。とはいえ、今回の御籤が年寄り向けとして区別されていたわけでもない。御籤の種類も神社によってさまざま。どこの神社だったか、恋御籤という種類もあり、他よりも100円ほど高かったようだった。

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住吉神は和歌の神様。東京の湯島天神で引いた御籤と風情が似ている。湯島天神の方は当然、道真の和歌だったが。

最近は和歌にはとんと縁がないなあ・・・

 

東京圏の空と大阪圏の空、とくに夕焼けの空

5月末を最後に6月初めに東京文京区から大阪府内、大阪湾沿岸の生家の近くに引っ越しを完了した。もうすぐ二か月にもなる。この間、何回か東京大阪間を行き来したが、東京から大阪に向かった最後の二回は中央本線で特急あずさを利用して長野県の諏訪地方を経由した帰省旅行となった。これはその頃よく見ていた鉄道オタクのユーチューブ動画に触発されたことによる。長野県では二回合わせて諏訪湖諏訪大社、上社と下社に立ち寄ったりもしたので、スマホ写真もたくさん残っているが、今ここで順を追って整理するのも気分的なゆとりが不足しているので、それらについては今後そのうちにまとめることとし、今はこちらに移り住んで強く印象付けられた一つの事柄についてだけ、書き留めておこうと思う。そのテーマは表題のとおりである。まずは、次2つの写真を比較してみたい。

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上の方は、つい最近のような気がするが、じつは5年ほど前に東京文京区の後楽園付近の交差点で撮った写真である。下の方はつい最近、先月に大阪市内、道頓堀川の橋上になる御堂筋の歩道で撮った写真である。雲の量がかなり違い、太陽の高さも異なると思われるが(どちらも夕日は映っていないが)、空気の清浄度の違いがかなり現れているのではないだろうか。後者で見られるような明るく澄んだ夕焼けは東京ではあまり見られなかったような気がする。

上の東京後楽園あたりで見た夕焼けはしょっちゅう見られるような夕焼けではなかったが、このような燃えるような濃い色の夕焼けは当地でも見られる。次の写真がそれで、これは堺市の臨海工業地帯を望む場所で撮ったものである。

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印象としてはかなり近いが、確かな違いはある。こちらは黄色味の強い、オレンジ色系の部分がかなり広く拡散しているのに対して、上の後楽園で見られた夕焼けは黄色味の強さが特に明るい部分に限られ、暗い紫がかった部分がかなり広がっていることである。これは東京地方では黄色から緑にかけての光の吸収が比較的に大きく、空気汚染度の大きさを示しているように思われる。

 

東京で暮らしていた最後の数年間は夕方、不忍池まで歩いてゆくことが多く、毎週、何度も、往復で4キロ以上を歩くことも多かった。そのため夕暮れ時は不忍池のベンチで黄昏の空を眺めることは多かったが、夕焼けの記憶は少ない。しかしこの機会に古いフォルダー内の写真を見てみると、夕焼けらしい写真は、下のいくつかのように、あるにはあった。

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後の3枚は2015年の8月、同じ日に撮ったもので、不忍池でこれほどの夕焼けが見られた記憶は少ない。最初の写真程度の夕焼けも見られない夕方が殆どであったような気がする。気付くのはやはり、黄色から緑にかけての色調が、当地に比較して弱いことである。また全体に色の純度が低く、灰色がかっているともいえる。次の写真は、たまたま同じフォルダーで見つかった虹の写真で、これは同年9月の初めにお茶の水駅付近で撮った写真である。Kc463902

珍しく虹に遭遇出来たのがうれしくて、スマホを取り出して写真を撮ったが、やはり空気が澄んでいないために全体がうすぼけて、特に緑が殆ど隠されているようだ。青や紫は空の地の色に他ならない。

一方、下は当地の海岸、というか埋立地の水路で撮った南西の夕空である。

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とくに、夕焼け雲の中に垣間見える空の色が薄い緑色になっているのが目立つ。東京圏ではこういう緑色がかった空色は見た記憶が無い。

次の二枚はやはり今年の7月、堺市の市中で撮ったものである。

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このように空のかなり高いところまでが黄色く染まるような夕焼けも東京では見たことが無い。

次は上記水路に隣接する公園で見えた夕焼けであるが、最初の1枚は西の空、次の2枚はだいたい同時刻の東の空である。

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このときは雲の関係で、西の夕焼けは少ないが、東の夕焼けはかなりのものである。要するに当地では夕焼けが全天に広がることもある。全天に広がる夕焼けも、東京では経験した記憶が無い。

 

当地の、空に関する、私の子供時代の記憶としては、特に夕焼け空が強く焼き付いている。西の方に海岸があったため、また海岸地方にまだ漁村や農村も残っていたのどかな時代でもあったこともあって、夏から秋にかけて沢山のトンボが飛び交う夕焼け空の記憶はかなり鮮烈に残っている。その後、成人してから4年間ほど、山口市に移り住んだが、当時は夕焼け以上に、夕焼けがおさまった後もかなり長く続く黄昏の空の透明感が特に印象に残っている。次にかなりの長期間、岡山県内で過ごしたが、この時期はあまり空の色を楽しむようなゆとりはなかったせいか、あまり記憶に残っていない。その後に東京圏に移り住んで、結局はこの期間がこれまでの人生でもっとも長い期間となった。

東京圏で、特に都心の文京区に住むようになって戸惑ったことの1つは方向感覚である。もともと方向音痴の傾向はあったが、東京の都心区域は特に関西圏の都市に比べて道路の方向が斜めに入り組んでいることが原因として大きいが、それに加えて海が東の方にあるという点でも私の方向感覚が混乱したのである。東京で海岸に行ったことは一度もなかったが、それでも東京の地図が頭にあり、海の方向にどの地区があるかというくらいの土地勘はあった。ところが海の方向から日が昇り、海と反対の方向に日が沈むという現実にはなかなか馴染めず、方向を間違えることが、結構あった。こんなわけで、始めは、東京であまりきれいな夕焼けが見られないのは西の方に海がないからだろう、と勝手に解釈していた。今当地にまた移り住んで、改めて考えてみると確かに西に海があり、西方の空気がきれいな事には間違いがないだろうが、それだけではなく、大阪圏では東の空も含めて全体に、東京圏に比べて相当に空気がきれいで、空も済んでいるのである。下の写真は件の水路で、午後3時頃に撮った南の空である。青空の明るさや純度は写真ではわかりにくいが、印象的なのは白い雲のテクスチャーが細部まで実に克明に見えることである。これはやはり、空気が澄んでいるからだろう。

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東京の空が関西に比べて汚れているのは、これはもう宿命で、仕方がないといえる。東京圏自体の巨大さに加え、風上にあたる西方に、日本の大部分の都市群と人口がある。それにしても、空が明るく澄んでいるのはそれだけでなんと気持ちがよいことだろうか。

去る3月21日時点の写真とつぶやき

今日はもう4月11日。しかしこの記事は去る3月21に作成し始め、遡って記録しているので、その日以後のことで書くことがあればは次回記事になる予定。

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スマホのカメラだが、月がこのようによく取れたのは始めてである。夕方だが、空の明るさがちょうど良かったのだろう。

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上野公園の清水寺観音堂の崖下だが、普通は観光客も素通りする場所に人だかり。先般、「世界ふしぎ発見!」で上野公園あたり、寛永寺などの特集をしていたのでその影響だろうか?

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右の女性はお寺か神社の関係者だろうか?珍しいいでたち。

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最近、上野のある場所まで歩くときに時々通るようになった経路にある急な崖。湯島天神の裏のほうである。

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ある夕方の東京ドームシティ。ラクーアビル内の通路からガラス越しに下を見る。

その数日前に大阪府内に一度帰郷して東京の現地に戻ってきたのだが、以下はその際の写真。

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浜寺水路の遊歩道を散歩中。

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単調な眺めであまり風情もないが、見晴らしがよく、遠くの山脈が見えるのは気持ちがいい。

公園対岸の遊歩道は今回初めて。比較的最近に出来たようだ。釣り場になっているらしい。

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ボート競技場にもなっているらしいが、今みえるような細長いボートを見るのは初めてだ。

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工業地帯の塔や煙突も一つの眺めとしてそれなりの勧興をもたらすが、やはり町中や市街の建物や風景がもたらす風情というか、充実感のようなものが得られないのはなぜなのかなあ。美しいかどうかという問題になるとむずかしいが。

人物も普通は着衣姿で表現する。西洋画や彫刻では裸でも表現することが普通になっているが、それでも機能的な部分をあからさまに描くことはあまりしない。眼だけは別だが。工場地帯はある意味、内臓を描くようなものではないか。最も蒸気機関車のような例もある。蒸気機関車は機能的な部分が外から見え、それが魅力でもあり、美しさともいえるのだが。

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かつてこの水路は遠浅の砂浜海岸であった。

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下の二枚はその前日だったか、用もないのに南海難波駅の屋上の駐車場付近まで足を延ばしてみた。駅に出入りする南海電車をこのような視点で見たのは初めて。最近、ユーチューブで電車の動画をよく見るようになったが、そういうマニアの気持ちが分かるような気がする。

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空中庭園の向こうにあべのハルカスが見える。そのうち一度行ってみるかな。今行こうと思えばいつでも行けるのは東京スカイツリーだが、たぶん一度も登ることもなく終わりそうだ。そういえば東京タワーの付近には何度も行く機会はあったが、ついに中学の修学旅行で登って以来、一度も登ることもなかったな。

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この空中庭園はかつての大阪球場の跡に出来たそうだ、かつて大阪球場のあった頃、野球嫌いの私にはめったに近づく機会もなかったが、今となっては当時の環境が懐かしく思い出される。

下は今回帰郷する際、新幹線の車窓から撮れた富士山。縦長画像の上部半分ほどを切り取ったものである。

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以下は帰郷する前まで、例のごとく散歩や徒歩で移動中に撮った写真をただ掲載し、状況に 応じてタイトルだけでもつけておこう。

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以下は以前に掲載した場所とは異なるもう一つの漱石旧居跡

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以下は鴎外記念館付近

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ここにもあった急な崖の階段。

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以下、空白期間の写真をまた追加するかもしれない。本日はここまで。