矢車SITE ― 改訂2022年11月

写真を主とした本人の日記代わりのようなブログで、つぶやきのようなものですが、 当人の別ブログ記事の更新紹介も行っています。

いったん別のサイトに移転した本ブログのメイン記事を本サイトに戻しました。部分的にTwitter投稿を一定期間を区切って掲載したものが含まれます。

ある猫の最晩年

私は数年前に東京から大阪府の生家の近くに引越したのだが、生家には10歳上の姉が猫を飼いながら暮らしていたので、もう相当な年でもあり、私は頻繁に生家に通って何かと協力しなければならなかった。


その猫は種類としてはキジトラ猫で、飼い主以外には懐かず、私が行くと一目散に逃げることが多かった。生家は木造の、もう相当古いあばら家で、逃げ場はいくらでもあり、二階の物干しや窓から隣に行くこともできた。その姉がちょうど1年ちょっと前から、私と同居することになり、嫌がる猫を何とか連れてきたのだが、最初は姉の部屋から出てくることはなかった。

ふすまの陰で

もっと近づくと、

怖い顔

 

臆病とはいえ、猫はやはり上から目線

もちろん飼い主には懐いていたが、わがままで大食で、悪い声で鳴いてばかりで手こずらせるので、飼い主も困っていた。もう十数歳の婆さん猫であったそうだが。これまでにも何度か弱りきって、もう死にそうだと思われたこともあったらしい。

こういうのはまだ固形なので何だが、液体の方には随分手こずっていた

私がストーブを付けるときは知らんふりをしているが・・・

ストレス解消のために買ってみた猫タワー。

何とか使ってくれるようになったが、頂上以外は乗りたがらないし、遊ばない。子猫ではないので仕方ないが。しかし、飼い主の話によれば子猫のときから遊ばず、他の猫と戯れることもせず、孤高を保っていたらしい。

 

元気がなくなってタワーに上らなくなっても、もっと高いところにあるこの布袋様の上にはなぜか無理してでも登りたがった。

このころ、一度、飼い主の膝の上に、自分から乗っていったことがあった。姉は、これまでこの猫が膝に載ってきたことはなく、これが初めてだと言って、すこし驚いたようだった。飼い主に抱かれるのも拒否するくらい気位の高い猫だったのである。

 

後からの話になるが、ちょうど死ぬ一月まえ、いつもはあまり近づかない私のいる近くまでトコトコと歩いて来たと思うと、なぜか行儀よく止まったのである。ちょうどスマホが近くにあったので、撮りにくいがスマホを猫の下方にくるようにして、急いで撮ったのが結構良く撮れて、飼い主のお気に入りの写真となった。鈴の付いた首輪は二つ目で、私が買ってやったものである。この首輪は、買主が横で猫を抑えるところを、私が前から付けてやったのだが、その時はなぜか全然嫌がることもなく、おとなしくじっとしていたのが意外であった。

 

一か月後の夜遅く、姉が自室の中から私に「猫がもうすぐ死ぬから、段ボールの箱を用意いしておいて」、と声をかけてきたので、適当な段ボール箱を用意して部屋の前に置いておいたのだが、姉は結局朝まで起きていたらしい。

深夜、私がトイレに立ったとき、薄暗い通り道に布の盛り上がった塊があったので、布をめくってみると、なんと当の猫が首をもたげて伏せっている。びっくりしたが、少し頭と喉を撫でてやったら、そのまま静かにしていた。あまり長くなで続けることはしなかった。それまでこの猫は私に撫でられることを嫌がっていたからである。


 

私はそのまま部屋に戻って寝てしまったが、猫はその後再び姉の部屋に戻り、夜が明けるまでにその部屋で死んだらしい。

死体に添えられた花は翌日駆けつけた姉の友人が持ってきてくれたもの。
下のやや豪華な花束はやはり別の友人が供えてくれたもの。

魂はどこへ?

一説には、猫のような動物の魂は、死後は個体性を持つことはなく、猫種族の魂のなかに取り込まれてゆくのだとも言われている。もちろん本当のことは私にはわからない。

 

ともかくも、私がこれまでに付き合ったことのある飼い猫のなかでは、人慣れしない猫であり、相当に個性の強い猫であったし、飼い主もそのように話していた。ネットで簡単に調べてみると、確かにキジトラ猫は野生に近いと言われている。ところで最近はなぜか日本だけではなく世界的にもキジトラ猫が増えてきているのではないかという気がしている。テレビやインターネット動画にあふれている猫動画を見てもそのような印象がある。先祖返りのような現象があるのだろうか?

私は自分で猫を飼ったことはないが、学生時代の途中まで、まだ生家で家族と一緒に暮らしていた昔の頃、同居人の誰かが猫を飼っていたことも多くあったが、大抵は黒猫かトラ猫か、白っぽい部分が多い猫であった。私自身はあまり餌を与えるようなこともなかったが、結構私にも懐いて、勉強中の膝の上に乗ってきたり、立っていると飛びついてきたこともよくあった。多少手荒に扱われたりしても平気であった。

猫の世界も時代と共に変化しつつあることをつくづく感じる今日この頃である。とにもかくにも、彼女(老婆猫だったので)は私にとっても色んな世界との接点ともなり、いろいろ考える材料を提供してくれた有難い存在ではあった。