一昨日のこと、単に気分的に、ユーチューブ動画を選択して『
仲道郁代 プログラムを語る【夢は何処へ】 対談 仲道郁代×小田部胤久~響きの中にさめざめと泣き続けたい夢~
』というタイトルの動画を見たが、かなり印象に残る内容だった。そして今日もまだその印象が残っていたようだ。というのは、今日な次のような過ごし方をした日になったからである。
今日、昼食後間もない時間、近くにいた姉が友達に電話しているのが聞こえたが、その友達という人が、「今から昼寝をする」、と姉に言ったとの事である。私には関係もないことだったが、昼寝と言えば、最近は昼寝をすることは無かったな、などと思いながら、自室に戻ってパソコンの画面に向かい、何かしら懸案の作業を続けようとおもって、パソコン画面のウィンドウをいくつも切り替えたり、ぐずぐずとしていたが、なかなか気が載らず、「そうだ久しぶりに少しばかり昼寝でもするか」と思いたち、低い椅子のそばで仰向けになって昼寝を始めた。そのまま寝るには少し寒いような気がしたが、服の上に何も掛けることもなく、予想していた時間をかなり超え、2時間ほど寝入ってしまった。もちろん熟睡するには至らず、その間、久しぶりに記憶に残る夢を見ることとなった。
その夢というのは、もちろん視覚的な印象はあるが、近年に私が経験した多くの夢と同様、気分的、感情的な側面が強く、思索的でもあった。というより、夢そのものについて考えていたような気さえするのである。夢を見ながらかなりそれが夢であることに気づいていたように記憶している。こういう夢はこれまでにも経験している。夢というよりも幻想に近いのかもしれない。具体的な夢の内容について言えば、単に、昼間にスーパーマーケットかコンビニのような店内に入るだけという出来事なのだが、それが真昼の時間帯であることを確かに意識していた。それはやはり、午睡に入ったときの時間意識をそのまま夢の中に引き継いでいたとしか思えない。その時私は次のように意識していた。「私は真昼に、あるスーパーに入店するという、これまでに経験したことのない体験をしている。」「これは夢なのだ。夢だからこういう体験ができるのだ。」もちろん現実には真昼にスーパーやコンビニに入店したことはいくらでもある。だから上述のような意識の内容は現実の私の経験に反することなのである。もう一つのおかしな点は、それが昼間のことでありながら、店内はもちろん照明で明るいが、外は真っ暗で完全な夜の環境であったことである。店と屋外とはガラスの壁とドアで仕切られていたらしく、外から店内は見えたが、外は完全な闇で、何も見えた記憶がない。もちろん店内が見えたといっても具体的に並んだ商品や店内の人々が見えたわけでは無く、単なる環境として意識できただけである。また私がどこからその店の前に来たのかという意識もなく、いきなり外から店内に入ることから始まった。店で何か買い物をしたのか、また店を出てからどこかへ行ったのか、といったような意識も全くなく、ただ感情と上述のような思考だけがあった。気分としては、これまでに経験した多くの夢と同様、一言で云って孤独感である。悲哀でも寂寥感でもなく、孤独感という表現が最適だろう。違和感ともいえるかもしれない。何に対する違和感であるかといえば、周囲環境と私自身との違和感ということになるだろう。
上述のような夢で味わっていた孤独感と違和感、あるいは日現実感を引きずりながら夕方、いつもより早め、まだ晴れた昼間の明るさが十分に残っている頃に公園の方を向かって散歩に出た。このときはまだバラ庭園の閉門までに間に合うだろうと期待していったが、この日も閉門30分前を少し過ぎてしまい、入場はできなかった。
この日は平日だったのでバラ庭園周辺の混雑もなく、久しぶりにベンチで読みかけの本を1時間弱ほどをかけて4ページほど読み進むことができた。その本というのはカントの『判断力批判』である。実は去年のいつごろからか、この本を毎日散歩の途中に読む習慣になっていたのである。こんな本は一回に何時間も続けて読めるものではないし、4ページも読み進めることができれば良い方である。半ページに30分をかけて終わりという日もある。そういうわけで去年の秋から先月あたりまでは公園のベンチでは少々寒いから、2キロくらい離れた巨大スーパーマーケットまで歩いたり、もっと遠方の巨大ショッピングモールまで年寄り向け割引のある電車で足を延ばしたりで休憩所などを利用してしばらく読書をし、ついでに買い物もして帰るという日常が続いていた。そういえばカント哲学は先日のユーチューブ動画でも話題になっていたので、ここにも何かのつながりがなくもない。という訳で、スーパーマーケットやショッピングモールの環境が日常の一部を占めるようになっていたのも、今回の夢の素材になっていることも確かだろう。
読書の後、久しぶりに公園の南端まで1キロ半ほどの距離を、のたのたと歩いて行った。
上写真のベンチでも本の続きを少し読み続けた。とは言っても数行かな。もう日暮れも近く、誰もこのベンチ群まで来そうにはない。向こうの通りではまばらな人通りはあり、若い女性が何か一人でわめきながら通ったらしいのを覚えている。そばの水道栓では一人のジョガーが顔か何かを洗いに立ち寄っていった程度。後は頃合いを見て歩いて帰るのみ。
さて、当日歩きながら考えていたことの続きをまだときおり考え続けている。もちろん主に当の午睡の夢と、夢一般についてである。
フロイト流の精神分析では通常、夢はイメージによる象徴的な思考であるという考え方が一般的であるように思われるが、私の場合、特に人生の後期に入ってからは今回に限らず、つじつまの合わない思考ではあっても、やはり言葉、もちろん日本語で考えていたり、イメージというよりむしろ感情や気分の要素が強い場合が多いような気がする。もちろん、かなり鮮烈な視覚イメージの夢を見たこともある。記憶している例では、鮮烈な青空の中に真っ白な富士山の頂きが浮かんでいるという結構な夢の記憶がある。その時はただそれだけ、視覚的イメージの他には、美しいなという気持ちを伴う程度であった。多くの場合、夢の印象に残るものはイメージよりも感情や気分である。初めの方でも述べたように、一言で云えばやはり限りない孤独感が基調にある。考えてみれば夢を見るという体験はすべて孤独の体験である。これはある意味で死を連想させる。死という体験は孤独な体験とされているからである。しかし死という体験と死後の体験とはまた別であろう。死後について知ることができるかできないかは別として。
件のユーチューブ動画の中で話題になっていた夢に関するテーマは主として、夢は何処から来るのか、つまり夢の源泉についての問題であり、古代ではそれは神のお告げのように、自己の外に由来するように考えられていたが、近代の哲学者たちから、夢の源泉は個人の無意識という、自己の内部であるという見方が主流になってきたという論点が主軸となっていた。参考として挙げられた哲学者の名前としてはライプニッツやカント、さらにドイツの文学者たちで、フロイトの精神分析には至らなかった。これはある意味自然なことであってこの対談の趣旨はベートーヴェンとシューベルトのソナタにちなんだものであったから、時代的に当然ではあった。それに、フロイトの精神分析は科学とされ、フロイト自身も自らを科学者と考えていた。精神分析が成立して以降、夢は科学で扱うものとなり、現在に至っては脳科学であつかうものという印象が強いものとなっている。しかしやはり現在に至って夢を何らかの学問分野で扱うとすれば、科学以上に哲学が、さらには文学が重要になってくるのではないか、というのが今回記事の1つの結論である。
当日の散歩中には他にも文学のことや自転車乗りについてなども考えたが、今回はこれだけにしておこう。なお前回記事を読み返してみると、約1年ほど経過している。この記事の中でのべたところの志賀直哉を読む計画は最初の40ページ余りで頓挫している。また再開することもあるかないか、どうなるだろうか。