最近の急激な社会と政治経済の状況変化をきっかけに小泉元首相の再評価、というより批判的見直しがもうすでに一般的になっている。
私が小泉政権の時代に最もいやな感じがしたことは、彼の言葉の用い方、言葉使いであった。いわゆる「言葉の巧みな人」であったには違いない。その巧みな言葉使いを駆使した政治手法はよく「劇場型」などと評されていた。それはそれで1つの要領を得た表現だろうが、それではその言葉使いそのものに対する批判にはなっていない。そのレトリックというのだろうか、言葉使いそのものの持つ問題点を一言で表現するなら、それは「言葉の私物化」と呼べるのではないかと思う。
言葉の私物化は普通に公認されている場合がある。個人やペットなどの名前などがそうだ。たまたま昨日ラジオを聞いていたら、フランスでは豚にナポレオンという名前を付けることが法律で禁じられているいう話をしていた。日本でも何らかの制限はあるが、基本的に真、善、美、貴、剛、優、といった類の意味を持つ名前は使い放題である。理由はいろいろ考えられるけれども、とにかく平等に、そう言う言葉を自由に使えることになっているから誰でもそんな名前を使っている。しかしこれが商品名となるともっと制限が厳しい。
たとえば東京は文京区本郷の老舗の和菓子屋さんが大学最中という名前の最中を売っている。かなり昔からと思われるから、当局からも近くの東大からも、一般のだれからも苦情などは来なかったに違いない。これが和菓子ではなく私立の高等学校とか、各種学校などだったら、とても許される名前ではないだろう。学校も一種の商品である。
政府の政策とか、政治方針とかいったものはどのような商品よりもはるかに重要で、国民生活に影響を与えるものである。勝手に意味のある名前などを付けられては困るのである。「構造改革」、「骨太の方針」、「三位一体の改革」等々、これらはみんな言葉の私物化といってもおかしくない。本人がそう信じるのであればそう呼ぶことは仕方が無いかもしれないが、マスコミまでがそのまま使用するのは尚おかしい。その意味では報道関係者の責任の方が大きいかも知れない。商品名やある程度は個人の名前にさえ、使用できる用語が法律で制限されている。このような政策などにこんな名前を付けることは法律で禁止してもおかしくはないのではないかとさえ思う。
「ニセ科学」、「エセ科学」なる用語が、それまでにあったかも知れないが、盛んに使われるようになったのはその頃からではないだろうか。「トンデモ」という表現もそうである。「トンデモ」などはもう差別用語の最たるものといってもよいと思う。差別用語を禁止するのであれば、これも禁止されておかしくない用語である。「トンデモ」も一種の、言葉の私物化であると言えるのではないか。「とんでもない」という個人の、あるいは仲間内の主観的な感情に過ぎないものを強引に客観的な実質として通用させてしまう暴力的な言葉の用法である。
せめて科学者にはこのような変な言葉で下品な議論をしないで貰いたいものだと思う。
自らを科学ではないといっているものを科学の名のもとで批判する権利を持つほど科学は絶対的なものであるとは思われない。科学そのものの中に抱える問題をこそもっと真剣に考えるべきである。それも科学性というような、それ自体問題の多い基準で批判するべきではなく、あくまで論理の基準で議論、批判をするべきだと思う。それも単純な形式論理だけではなく、意味的に深めた論理の基準であるべきだ。科学自信が科学性を基準に判断することができる訳がない。科学性そのものを議論するにはいったん科学の外に出なければならない。それは当面は一般人の立場か、あるいは学問的には哲学者の立場にならざるをえないだろう。「ニセ科学」という概念を根拠にすることはそういった謙虚な姿勢を拒否した自己中心的態度ともいえる。例えてみれば、科学という砦の中から外部に飛び道具を放っているようなものかも知れない。