ブログ発見の「発見」、2/24日の記事で英米ニュースサイトでのダーウィン主義進化論のニュース記事に触れ、多くの記事をろくに読まないまま、個人的な感想を書いた。その続きのような形で、その後考えたことをこちらで書いてみたい。
あらかじめ断っておくと、これは2、3 の言葉の意味について考えたことの面からのみダーウィン主義について思うことで、ダーウィン進化論と現代の進化論の全体はもちろん、それらを構成する個々の理論についてコメントするといった、専門知識を要するような内容ではない。
それらの言葉のうちで、まず、「適者生存」という言葉だが、この言葉についてウィキペディア日本語版に次のような記述がある。
『創造論者などは進化論への反論として「生き残った物が適者であり、適者が生き残る」と言う主張は循環論(あるいは同語反復、トートロジー)であり科学ではない、と主張する。しかしこの表現は、メカニズムを簡潔に説明するための比喩であり、何かを証明する理論ではない。生物学者はこの表現を一般的に使うことはなく、自然選択と呼ぶ。そして自然選択はフィールドワークや実験から観察された事実により支持されている。』
ここで対立している両サイドに問題があるように思う。
進化論への反論として取り上げられている「適者生存」が同語反復であるという主張は一応正しいと思う。但し創造論対進化論という図式での議論として固定的にこの議論が用いられるとすれば問題だ。
一方、「(適者生存とは)メカニズムを簡単に説明するための比喩であり・・・」という反論にも大いに問題がある。あまりにも大ざっぱだ。同語反復であるかどうかという問題と、比喩であるか比喩でないかという問題は別の議論であって、議論がすり替えられている。比喩的であることを問題にするなら、むしろ「自然選択」の方があからさまな比喩である。ダーウィン自身が説明しているとおり、人為選択のアナロジーであり、自然の擬人化である。
ちなみに「メカニズム」と「mechanism」とを日英それぞれのウィキペディアで引いてみると、日本語では「機械」と「構造」の2つの項目に振り分けられているだけだが、英語版ではMechanism (biology)、Mechanism (chemistry)、Mechanism (philosophy)、Mechanism (sociology)、Mechanism (technology)、およびMechanism (engineering)、と6通りもの項目に振り分けられている。そこで、Mechanism (biology) を引いてみると、冒頭近くで「No description of mechanism is ever complete」という表現に始まり、結構長文の議論が開始される。
そこでは、最近の数十年にわたり、生物学におけるメカニズムの概念が哲学的分析の対象として再登場してきたことが紹介され、その多くが explanation と causation との問題に関わるメタサイエンス的問題であるとして、そういった説明の例としてWesley C. Salmon という人の考えが簡単に示されている。それによると、メタサイエンスの文脈では記述すること(description) と説明すること(explanation) とは同じことであるという。
この問題にいくらか興味はあるがいまこれ以上知ろうとする意欲は持てない。いずれにしても、生物学におけるメカニズムの問題は現代の科学哲学の主要問題であるらしいことが分かる。ともかく、少なくとも生物学でいうメカニズムという概念自体がそんなに確かなものではない事が分かる。
直感的に思うことだが、適者生存というのは単に適者といえる存在が出現してくるという事実、すなわちダーウィン進化論で進化は自然選択と、淘汰される前提として生じている筈の多様性との二段階から説明されているのだと思うが、その多様性が生じることそのものを言っているに過ぎないのではないかという疑いが起きる。すなわち適不適を含め、様々な多様性が生じるという、自然選択の前提となる現象をそのものを指しているに過ぎないのであって、自然選択という現象は、前提となるその多様性が生じることの中にすでに含まれているということではないか。
自然には生物自身も含まれているわけで、当然に変異という多様性を生み出す過程も自然に含まれる。
ダーウィンが自然選択という言葉を発明したことによって進化のメカニズムの主要な部分が自然選択にあると思われるようになってしまったが、実際のところ、進化のメカニズムというものがあるとすれば、それはダーウィン主義で自然選択の前段階、前提とされている多様性の出現そのものであって事実上そのメカニズムなるものは何も分かっていないという事ではないのだろうか。
進化の事実そのものは地質学、自然斉一説によって明らかになっている。キリスト教的な創造論や天変地異説は自然斉一観によってダーウィンの当時すでに古いものになっていたとも言われる。この自然斉一観というのが地質学の基本原理とされてはいるものの、物理学や生物学ではあまり強調されることがないのはどうしたことだろうか。物理学では宇宙の始まりというような問題が扱われるようになった現在、あまり意味がなくなったのかも知れない。しかし、進化の歴史的事実は自然斉一観に基づく地質学的な古生物学で明らかにしたことで、ダーウィンの業績はその上でなされた仕事である。
進化のメカニズムを適者生存とか自然選択といった抽象的表現よりもいくらか具体的になったのが競争、闘争、共生、といった概念だが、本来こういう言葉は人間にしか使えないものである。生物一般に使うとなれば、生物学はすでに自然科学の枠を超えていると言わなければならない。実際生物学である以上、どのような対象であっても、自然科学的用語だけで済ませるわけには行かない。
同時に、自然科学的世界観の枠を超える概念や想定や仮説をも受け入れる覚悟が必要であるとも言えるのではないだろうか。