いつ、つまり何年何月何日何時何分に、というわけでも無く、この書物を一応読み終わった。と、こういう表現になるのは、最後のあたり、もちろん完全にというわけには行かないが、一応読み終わったと納得できるように読了したいと思いながら、途中で少し前の方に戻ったり、とりあえず最後までざっと読んでみたりの繰り返しで、何ともメリハリのつかない読了という事になったわけである。
こういう本は少なくとももう一度、第一巻から読みなおし、各章節の要約でも作りながらでもないと、一瞬頭に入った内容も直ぐに雲散してしまう。
しかしまあ、昨年10月に第一巻を読み始めてから1年と少しでとにかく最後まで読了した。今の段階で第一巻「言語」および第二巻「神話的思考」とこの第三巻「認識の現象学」とを比べてみると、解説でもこの第三巻が「全巻のクライマックス」と述べられていることからも分かるように、第一巻、第二巻とは異なった手応えがある。例えば、全巻を通じて古代から現代に至るまでの哲学者、科学者からの非常に多くの引用があるが、第一巻、第二巻では引用の仕方が比較的断片的であった。もちろん、本の記述自体が断片的というわけではなく哲学者達の引用が断片的という意味である。
この第三巻の場合、引用はその場限りの断片的な引用と言うよりも、それぞれの哲学者や数学者、科学者の思想全体あるいは核心が引用されているといえる。具体的には、特にデカルト、ライプニッツ、カント、ラッセル、あとは多数の数学者達と科学者達である。ただし科学者の場合、その人の哲学というよりもその重要な業績に関わる場合と、その哲学思想に関わる場合とに分かれる。どちらかというと哲学者として引用されている科学者はヘルムホルツとヘルツ、その科学的業績について引用されている代表はアインシュタインという事になるだろうか。数学者の場合は数学基礎論関係ということになる。
というわけで、この第三巻に関しては特に引用されている学者達の業績に精通していることが前提となることが分かるが、もちろん私にはそういう事は望めない。できれば逆にさかのぼってそれらの一つでも勉強してみたいと思う。
とりあえず、最後の方で、この本の一つの要約となっているように思われた箇所をメモしておきたい。もちろん、それでこの本全体の構造が読み取れるわけでも無く、単に最も重要な帰結の一つと思われるだけだが。
「こうして物理学は、〈表示〉の領域、いやそれどころか表示可能性の領域一般をさえ決定的に放棄してしまい、抽象の領野に踏み込むことになった。イメージによる図式機能が、原理によるシンボル機能にその座を明け渡すことになったのだ。むろん現代の物理学理論の経験的起源は、この洞察によって少しも侵害されはしない。だが、いまや物理学は、もはや内容をもった現実としての存在者を直接取り扱うことはせず、それが扱うのはその〈構造〉、その形式的な仕組みなのである。統一化への傾向が、直感化への傾斜に対して勝利をおさめた。」
カッシーラーのこの仕事が科学史、科学思想にとって非常に重要なものであることは間違いが無いように思われるが、それにしては現在、科学思想的な文脈でカッシーラーの名前を聞くことが少ないのはなぜなのかという疑問が起きる。もちろん私自身はその方面で研究してきたわけでもなく多くの書物を読んで来たわけでもないが、例えば現在流行している疑似科学論議では、カッシーラーへの言及はあまり見ないのである。
例えばウィキペディアは、現在主流というか、少なくとも流行している思想を多少とも反映しているに違いないと思われるけれども、たとえばよく聞く「科学哲学」を調べてみても主要哲学者のリストにカッシーラーの名前がない。また英語版で「Scientific philosophy」を引くと「Experimental philosophy」に転送される。こういう言葉は知らなかったが、哲学の対象と言うよりも方法の意味で科学的という事らしい。ここにもカッシーラーの名はありそうにもないが、一方で「Philosophy of science」という項目がある。この項目に載せられている哲学者のリストにも、カッシーラーの名前は見あたらない。どうしてこういう事になっているのかについて、非常に興味が持たれるところである。ユダヤ人であるカッシーラーはアメリカに亡命し、そこでこの書物の英語版を出すことを懇請され、その代わりに「人間についてのエッセー」を書いたという事である。この本は私が過去に読んだ数少ない、哲学書の一つだった。というように、カッシーラーの世界的な名声が低いというわけではなさそうに思う。このこと、つまり科学思想との関わりであまりカッシーラーに関心が向けられることが少ないということ自体になにか重要な意味がありそうな気がするのである。
しかし、ネットで検索すると、マルクス主義哲学者として有名な戸坂潤の「科学論」でカッシーラーが言及されている事が分かった。これは青空文庫で公開されていた。全文は読んでいないが、その言及されている箇所は次のような文脈である。
「 さてこの自然科学の特徴に就いては、ありと凡ゆる説明が与えられている。例えば研究方法が精密であるとか数学が充分に応用され得るとか、又は法則を発見して事象の一般化を行い得るとか、というのが現在の「科学論」の代表的な諸見解である。特に科学論に就いて功績の少くない新カント学派の例を取れば、H・コーエンや、P・ナトルプや、E・カッシーラーが前者であり、W・ヴィンデルバントや、H・リッケルト等が後者であることは、広く知られている。」
「だが独りカッシーラーに限らず、H・コーエンもP・ナトルプも、彼等自身、文化の科学に就いての見解は決して卓越したものではない。少くとも彼等の自然科学、特に精密自然科学、の科学性を科学一般のイデーにまで押し及ぼそうとする立場からは、リッケルトが文化科学を文化価値に関係づけようとした意図は、決して理解されないし、まして征服され得ないだろう。」
どうやら、ここで戸坂潤はカッシーラーが科学を自然科学としてしか捉えていないことに不満を持ち、自然科学を超えた科学一般として扱っていないことを欠点と見ていることが分かる。ただ、ここでは「シンボル形式の哲学」という書名への言及はなく、カッシーラーのそれ以前の書物に基づいているのではないかとも思われる。私は戸坂潤のこの文章全体はまだ読んでいないし、理解できるかどうか分からないし、リッケルトの思想についてもまったく知らない。しかし、逆にこのことがマルクス主義を含む現代思想の多くに見られる科学思想の欠陥というか誤りにつながっているのではないかという疑いを持つのである。
究極としての物理学を一つの専門とする自然科学をさらに超えた科学一般というものがあり、そちらの方をより一般的で基本的な科学であるとするような考え方が、現在主流であるように思われる。どうもそこら辺に現代思想の重要な問題があるのではないかという気がするのである。もちろん自然科学とそれ以外の社会科学とか人文科学とかを含めた科学一般というものが何らかの形で存在することには間違いようが無いし、追求に値するものに違いはない。しかし一面で、それがより一般的であるにしても、重要さという点で、そちらの方に分があるとは思えない。それはあくまで一面であり、多分に幻想を含んでいると言っても良いのでは無いかと思う。
こういう点で私はこの難しいカッシーラーの思想に引かれるのである。