矢車SITE ― 改訂2022年11月

写真を主とした本人の日記代わりのようなブログで、つぶやきのようなものですが、 当人の別ブログ記事の更新紹介も行っています。

いったん別のサイトに移転した本ブログのメイン記事を本サイトに戻しました。部分的にTwitter投稿を一定期間を区切って掲載したものが含まれます。

Twitter投稿再録ー2020年11月4日~11月15日

小石川植物園にて ― 2020年10月下旬 ―

正門入口付近

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クモがお出迎え

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ソテツがあり、向こうにススキあり、植物園らしい。

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本館。

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風情があるけれどもいかにも古びた印象。

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博物館ではないので関係者以外は立ち入り禁止。しかし立ち入ってみたい気を起こさせる玄関。ただここまで近づく入園者は他にいなかったが。それにしても古い。

この日の午後はやるべき作業がなかったわけでもないが、天気がよく明るいバラ園にでも行ってみたくなった。しかし準備不足でもあり、歩いて行ける小石川植物園に行くことにした。ここは多分20年以上も前に友人に誘われて初めて来たとき以来の訪問である。予想通りバラ園はなく、坂を上ってゆくと下のような標識が。

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これがニュートンのリンゴの木。ニュートンが眺めていたリンゴの木で、世界各国の博物館などに分け与えられているそうである。

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ケントの花という品種名らしい。

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(今ではニュートンのリンゴの木が見られるといってそれほど有難く思うわけでも感激するわけでもないが、やはり、こういうものにはいまだに気持ちをそそられる。それは若い頃に抱いていた科学へのそこはかとない憧れの感情である。それは科学というよりもむしろ科学という言葉、概念に付帯する感情のようなものである。これについてはちょうどいま漱石の文学論を読み始めたことで認識を新たにさせられた。それによると、文学的印象は[F+f]からなり、Fは基本的な観念であり、fはそれに付着する情緒を意味するとのことである。確かにこれは、当を得た重要な着想であると思う。とすれば、科学も、文学でもありえるということになろう。純粋にFだけ、あるいはfだけということはあり得ないのだから)

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この道の左側は樹木もまばらで明るく、あちこちに人々が集っている。一方、反対側は暗い森の印象である。

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菩提樹が見られるとあって、明るい方は諦め、暗い森の方に進んでいった。

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案内板にボダイジュ並木と書かれていたので、もしかしたらドイツなどで街路樹として有名なLindenbaumかと思ったのだが、並木の印象とは程遠く、このような無秩序に鬱蒼と茂った数本の大木の群生であった。

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Tilia miqualiana Maximとあり、後でウィキペディアで調べてみるとこの日本語のボダイジュはアオイ科で、ドイツのLindenbaumとも、お釈迦様縁の菩提樹とも異なる科の樹木であることがわかる。ここでは無秩序に生い茂って木の姿も捉えられないが、それにしても見ごたえのある立派な大木であることに変わりはない。なによりも菩提樹、ボダイジュという名前ですべてが繋がっている。この名前は漢字でもカタカナでも字面がよく、発音も美しいので、ボダイジュは好きな木である。昔、小学校の遠足で大阪のどこかのお寺で見た記憶があるが、樹形としては楠のような印象を持っていた。ただここでは庭木としての手入れはされていないらしい。

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紅葉はまだほとんど見られなかったが、なぜか1枚だけ色づいた葉がおちていた。

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樹種は分からないが、地味な黄色と紫の紅葉がそれなりに美しい。

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針葉樹の森

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総合研究博物館小石川別館。

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現役で使われているみたいだが、重要文化財。写真を拡大してみると、コンクリート造りのよう。玄関屋上のバルコニーの欄干には擬宝珠がある。

エンジュ

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名前は分からないが、印象的な樹形。庭木のような剪定はしていないのだろう。

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帰りは坂を上って茗荷谷駅前を通り、大型スーパーで買い物後、引き続き時間をかけて徒歩で帰宅。

Twitter投稿再録ー2020年10月1日~11月4日

 

 

 

7年ぶりの帰郷、加えて個人的新型コロナウィルス対策、マスク着用の履歴と考え方

前回、2013年の春に帰省してから7年余り過ぎ去った今年の九月、19日の午後から三日間をかけて帰省した。前回はこのブログを始めてまだ間がなかったが、ちょうど携帯電話のカメラ性能が向上してきた頃であり、今回と同様に数日の期間であったが、大阪と和歌山で多少の縁のある場所の写真を夢中になって撮りまくり、本ブログの過去記事として掲載している。今はスマホになり、写真画質も向上したが、この7年間の間はちょうどスマホが世界中に普及するまでの時期と重なっていたことは1つの感慨ではある。今回は所用以外に出かける予定はなかったが、やはりせっかくの長距離移動でどこにも行かないのはもったいなく思い前回と同様、京都で新幹線を降り、今まで近くを通ったことは何度もあったが参拝はしたことのなかった八坂神社に参拝した後(前回は時間があったので銀閣寺や六波羅蜜寺など、殆ど脚だけで相当な距離を歩き回ったものである)、京阪電車経由で夜、大阪府内の目的地に到着した。(実際にはこの間もう一度葬儀のために帰郷しているが日帰りであった)

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参拝の後、本殿の周囲を少し歩いていたら、上の写真のような社があり、何か馬に縁がありそうな名前で「健脚祈願」と書かれていた。何かと脚の健康が周囲で話題になる年齢にさしかかった現在、「健脚祈願」とは見過ごせないので、扉につけられたお賽銭投入口からお賽銭を投入して参拝をした。改めて確認してみるとここは「神馬舎」であり、神馬とは神が騎乗する馬の事であって、神様が祀られているわけではないようだ。それはともかく、今与えられているまずまずの健脚を、死ぬまで維持できることを祈願した。

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東山方面では丸山公園あたりや清水寺には一度ならず来たことがあり、八坂神社の鳥居や山門も記憶にあるが、神社の境内や祇園の街並みに足を踏み入れたのはこの日が初めてだった。確かに美しい街並みだけれどもこういう街並みの美しさはどこからきているのかなど、やはり率直に楽しむのではなくて、考えてしまう。

通りを歩き切ると南禅寺であった。ここはかつて、別の方向から足を踏み入れた程度の記憶はある

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ただし、今回も時間が遅いため同様に少し足を踏み入れただけに終わる。

今回、大阪府内に滞在中の風景写真はなし。

東京に戻った後、一昨夕の不忍池。中秋満月の前前夜。

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新型コロナ対策とマスク着用について、私の経験と考え

【これまでの体験】

さて、今回の帰郷でも所用以外で気になっていたことや考え続けたことは、言うまでもなく、新型コロナ騒動の事であった。何しろ道程中の殆どを四六時中、殆どがマスクをした群衆の中を通り抜けなければならないのだから。新型コロナ対策では、いまや個人的には全く心配していないのだが、こういう外出や旅行、さらに人に会うことで問題になることは、まずマスク着用の問題である。そこでマスク着用の問題について個人的な履歴と考えについてまとめておこうかと思う。

昨年暮れから今年にかけての冬の間、この問題がニュースに登場し始めた頃、私はやはり新型コロナ感染をおそれて、最初はよく行く上野方面に出かけることも避け、マスクも着用したかったのだが、あいにくすでに、どこに行ってもマスクは買えなかった。でもマスクでウィルス感染は防げないとは、昔からよく言われていたことなので、そんなに極端に恐れてインターネット経由で高額で入手しようとまでは思わず、マスクなしで外を歩いていたが、当時はすでに外を歩く人々の大半はマスクを着用していたので困りながら歩いていた。やがて、置き薬の箱に花粉症用のマスクが三枚入りの袋で入っていたことに気が付き、外出するときには着用するようになった。

もともと私は風邪をひきやすい方で、かつては毎年のように相当ひどい風邪を引いていたが、数年、四五年前になるかな、インターネット上の多用なサイトから得られる知識のおかげもあり(もちろんそれだけではないが)、もっぱら免疫力を高めることの重要さに目覚め、それまで無精でで週に一回程度であった入浴も毎日欠かさないようになって今に至っている。また、慢性鼻炎で鼻が詰まりやすく口呼吸をすることが多いせいか、扁桃腺から風邪を引きやすく、冬には加湿器を使うようになり、それ以来、重度の風邪を引かなくなったように思う。特に冬の加湿器の効果は大きいと感じられる。ちなみに風邪は専門家にもいまだによくわかっていないと言われるが、それは最もだと思う。個人によって、また年齢においても、症状にも個性があるように思われる。私の場合は大抵は扁桃腺の痛みから始まり、やがていつも同じような場所に蕁麻疹が生じて、腸の調子が悪くなり、下痢症状を引き起こすパターンが多い。ひどいときは筋肉痛や頭痛が起きる。ただ、上記のような免疫力対策を功を奏したのか、ここ数年間、寝込むほど症状が悪化することはなくなった。免疫力と言うものは未だに専門的にもよく分かっていないと言われるが、それはそうだろうと思う。また多様な風邪の症状にしても、お医者様にも本当のところはどれだけわかっているのか、結構怪しまれる。これまで医師の診断を受けた経験上、お医者様には申し訳ないが、そう思わざるを得ない。そんなわけで、新型コロナの症状にしても診断にしても、専門医自体がどこまでわかっているのやら、失礼ながら心もとない気がするのである。

そんなわけで、マスクをした場合には喉の乾燥と体温の低下防止に結構効果があるので、乾燥した寒いときにマスクを着用すると身体が守られているような安心感が得られ、寒いときにマスクを着用すのは嫌いではなかった。

しかし同時に私はかなり強い近視で、メガネなしで外を歩くのはやはり怖いのだが、マスクをすると見事にメガネが曇り、十分に危険なほどである。そういうわけで、室内ならいいのだが、交通量の多い外で、特に雨の日などはマスクをするのは危険と言っても間違いではなく、最初の頃からこの危険は風邪感染の危険よりは大きいのではないかと思っていた。そういうわけで、マスク着用を強く要請する向きには最初の、まだ寒い頃からかなりの不信感と反感を抱いていたことは確かである。

その後例によって猛暑を迎え、今や秋半ばにさしかかっているが、この間、行政側やジャーナリズム、インターネットの各種サイトを通して、様々な情報をえることができた今、マスク着用については次のような考えを持って対処してきた。

寒い間は外出時にマスクをしていたが、やはりメガネが曇ってくると外さざるを得なかった。

暖かく、さらに暑い時期が始まると外ではマスクを完全に着けないようになったが、店舗内に入ったり電車に乗ったりするするときだけ、胸ポケットに入れていた薄いマスクを着けるようにしていた。

この頃になると、街中を歩くときは完全にマスクを着用しなくなっていた。私の場合、出かけるのは大抵は夕方で4時半過ぎから5時半ころまでで、買い物であっても散歩を兼ねるものだから、外出時間は3時間に及ぶことがある。その時間帯の話になるが、一向にマスク着用者の数が減らないものだから、いらいらし、歩いている人たちに反感を感じるようにさえなってしまった。マスクの大きさや形状や色によっては不気味で気持ちが悪くなる場合さえある。しかし、日によって違うが、私が歩く範囲内では平均して1割程度の人たちがマスクなしで歩いていたような印象がある。年齢と性別、また風采や人相はあまり関係がないように思う。

以上のような中で先般、関西の方に帰郷してまた戻ってきたわけだが、この間、東京駅や新幹線の中などではマスク着用率は、近隣で体験していたよりは高かったことは確実である。非着用者は恐らく1パーセント以下だろう。

地元では滞在期間がわずかであったのでよくわからなかったが、東京の地元とはそう変わらない印象である。ただ、いわゆる「おっさん層」で非着用率が東京よりも高かったような印象がある。東京でもこの層では私を含め、比較的、非着用率が高く見えることは確かである。大阪の地元では近くに広い公園があるが、毎日のように公園に行くらしい姉の話では、その日の昼間、公園内ではだれもマスクをしていなかった、とのことであった。以前に一度電話で話した時に比べてかなり変化があるようだった。

ごく最近になって、私としては一つの決心をして、まず地下鉄に乗る時(最近は日常的に乗ることは少なくなったが)にマスクをしないようになり、つい最近に至ってはスーパーやコンビニでもマスクをしないようになった。ちょうど大阪からこちらに戻ったときから、地下鉄の構内放送ではマスク着用要請をアナウンスしなくなったように思う。もちろん、しょっちゅう乗っているわけではないので他の場合は分からない。一方、この一週間内に訪れた、近所にある2つのスーパーでは、マスク着用を要請する構内放送の内容が婉曲的になり、音量、頻度などが小さく、少なくなってきたように思う。これは行政側の変化の表れではないか、と思うのは考え過ぎだろうか?毎夕テレビニュースに現れる都知事の談話やその他のテレビニュースなどでは相変わらずのように思えるが。

例えば以前ある有名ドラッグストアに入ったとき、超有名店であるにも関わらず消毒用のアルコール瓶がごく小さく目立たないところに置いてあるうえ、空っぽだった記憶がある。マスクよりも消毒の方が、どちらかと言えばはっきりした効果があると思っていたので、少々腹が立ったのだが、今になってみるとそういういい加減さにむしろ好感を持つようになった。あまりマスク着用を厳しく要請するステッカーも目立たなかったし、こちらがマスク着用をしなくても店員の態度は全く変わらないし。

【私の考察と結論】

まず、新型コロナウィルス感染の実態とマスク着用の是非の問題は分けて考えるべきである。新型コロナウィルス感染状況の実態については素人でもあり、個人的に発言できるとしても、いまこのような形で総合的に判断することはできもしないし、したいとは思わない。しかしマスク着用の是非という問題については、に個人的に明確にしておきたいし、理解されることを望むからである。

  • スウェーデンの結果で十分総合的な判断として、マスク着用を国民全体に要請することで新型コロナウィルス感染拡大防止効果がないことは、もうスウェーデンの経験との比較から明らかになっており、それでもう十分であると言える。これはマスク着用と三蜜の両方について言える。スウェーデンでも公表される「感染者数」が完全に抑えられたわけではないにしても、マスク着用とロックダウンを実施している他のヨーロッパ諸国を顕著に上回ることはなかった。それで十分である。少なくとも一般人向けにマスク着用と三蜜の要請には、今回の新型コロナウィルスの感染拡大対策としては不要である。
  • 個人的判断のレベルでは、常にメリットとデメリットの両方を考慮する必要がある。私の場合は気道の水分と体温維持の点で冬季には気分的にはかなりメリットを感じるが、屋外ではメガネが曇るというデメリットは非常に大きく、危険な場合さえある。気温が低くなくてもメガネが曇る時は多い。夏季には冬季に感じるメリットは全くなく、事実上はデメリットばかりである。
  • 一般的なレベルでは、マスクを着けた人の口や鼻から出る飛沫を飛ばさないことがメリットであるという考えが定着している。ただこれは、普通の健康な人が飛ばす飛沫にどれだけの危険性があるかという問題が不問に付されているので、不明な点が多い。デメリットとして言われていることは、暑い季節にマスクを着けることによる不快感で体力や免疫力が低下すると言われる問題である。重要なことは、こういった体力や免疫力の低下は、単に新型コロナウィルスの感染症だけではなく、あらゆる病気と健康に関わるという点である。この問題については、健常者が飛ばす飛沫にどれだけの危険性確率があるかという問題に帰着する。その点での専門家による考察はあるはずであるが、大勢はそこまで考えない。マスクの飛沫拡散防止効果という時点で思考が停止しているのである。
  • 社会的レベル、というと抽象的になるので、人間関係のレベルと言えばよいだろうか。このレベルで考える場合、マスクは自分が感染しないために着けるのか、相手に感染させないために着けるのかという、心理的に微妙な問題が関係してくる。実際のところどちらにも意味がないということを両者が確信している場合、それがお互いにわかっている場合は何の問題もなく、周囲への対応の問題だけとなる。しかし現実にはそうではない場合が多い。一般的によく言われているように、マスクで自分の感染は防げないが、自分が感染している場合に飛沫を飛ばさずに相手を守ることができる、という考えが正しいかまたは信じている場合。その目的で着けているつもりでも、本心では自分が相手に感染させられることを恐れている場合もあるだろうし、誰でもそういう立場や心持ちはコロコロと変わる。こういう場合、相手が新型コロナウィルス感染を恐れていることがわかれば、議論は避けてマスクを着用するのが順当というものだろう。しかし、それで終われば後は永遠の平行線である。マスクのデメリットは他にもある。人々の心理的距離を分断するということだ。その分断が維持される。感染健常者のマスク着用に意味がないことを信じている立場からすれば、相手との心理的距離を近づけるためにも、努力をして相手を説得したいと思うだろう。一般に説得というものは容易ではない。どちらにも不純な気持ちが入り込む。その先はここで論議しても仕方がない。

以上までの内容を昨日の夕方までに書き込んだ後、買い物を兼ねた散歩で外出したところ、マスクを着用していない人の割合は、一昨日に比べて圧倒的に減少していた。一昨日は10パーセント程度に思えたが、昨日は1パーセントにも満たないだろうと思われた。がっかりしながら歩いていたのだけれども、後から考えるとこれは時間帯によるところが大きいことに気が付いた。一昨日に外出したのは3時半だったが、昨日は5時半であった。通勤者の帰宅時間であったことを考えると納得がゆく。食品スーパーの中も同じ。

とはいえ、以前と同様、対向する歩行者に避けられたり、あるいは電車内、スーパーなど店舗の入口や中で警告されたような経験は私の過ごしてきた環境では殆どなかった。ちなみに食品スーパーのようなところではマスクを着けずに入っても手のアルコール消毒は、瓶が見つかればできるだけするようにしている。現実にはマスクを着用しても手の消毒をしない人の方が多い。

これから気温が下がってゆき、マスクを着用してもそれほど苦痛ではなくなるだろうから、個人的に寒さに弱く、また耳鼻咽喉系が弱い私としては、マスクを着用した方が良いと思われるような機会も出てくるかと思う。しかしメガネが曇ることは依然として非常に大きなデメリットであることを超え、危険性というべきである。この問題についてはマスコミで取り上げられなかったわけでもないが、重要性が全く強調されていない。という次第で、私の場合はこれからも原則的にマスク非着用を続けそうである。

はてなブログから移転しました。

2020年(令和二年)9月より「はてなブログサイト」からこちらに移転しました。そのはてなブログサイトにおける本ブログの内容もまたもとは「FC2ブログ」で公開していたものです。同じFC2ブログサイトでは現在、下記リンクにある『発見の発見』という、元は「はてなブログサイト」で公開していたブログを公開中です。本ブログを直前まで公開していたはてなブログサイトも下記リンクにありますが、別の内容で更新を継続して行く予定です。

2020年8月半ばの更新 ― 写真集とブログ更新のお知らせ

 前回の更新記事は6月で、本ブログの完全移転のお知らせのみでした。前回の実質更新はまだお正月の頃だったから、実にあれから7か月以上。その間、言うまでもなくコロナ騒ぎと言う、文字通りの大騒ぎが発生し、当然私も巻き込まれました。まあとりあえず写真を新しいものから・・


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不忍池、最新

上は最新の写真。いつものとおり夕方で、この日は夕映えが印象的でしたが、この時も遠くに一艘の白いスワンボートが見えました。下はその数日前の同じような時刻でしたが・・


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数日前の不忍池にて夕方

このような不忍池の写真はしょっちゅう撮っているので、カラフルなスワンボートも良く写り込んでいますが、この日はなぜか白いスワンボートを撮りたいと思っていて、ちょうどこのような白いスワンボートが現れました。その時は白鳥らしい横向きの写真が撮れないかなと期待していたのですが、遅い時間で乗り場に帰るところなのか、ついに向きを変えることはありませんでした。後からこの写真を眺めていると、なぜかトゥオネラの白鳥を思いだしました。というのは、白いスワンを撮りたいと思ったのは、この7月に、私と同世代、実は一年足らず年上の知り合いの方が亡くなったことと関係があったことに気づきました。私の恩人の一人でした。長年にわたっていくつもの難病を抱えながら、仕事も含めて普通の生活を続けてこられた方でしたが、やや突然死のような状況であったそうです。とはいえ、一応は入院中に亡くなったとの事であったそうですが、このコロナ騒ぎの時期真っただ中で、ご遺族はつらい思いをされたようです。という訳で、今はどうしてもこのスワンボートの後姿が、その人に重なってしまいます。この写真のスワンボートのように、ごく自然に、穏やかに向こうの世界に旅立って行かれたに違いないと思っています。

 


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同上、少し以前に

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ボート乗り場横

これらは少し以前に撮ったもの。くつろいでいるような停泊中のカラフルなスワンボート達が涼し気で、なかなか美しい光景と思います。


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ボート乗り場

木造のボート乗り場もなかなか風情のある建物です。


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さらに一週間ほど前

この日は土曜日で、時間もやや早かったせいか、カラフルなスワンがまだ沢山。


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さらに数日前

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同上

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同上

ハス池の写真はtwitterに投稿したところ、珍しくリツイートしてくれた方がありました。ちょうど最近始めたラインを通じて大阪の姉達に送信したところ、涼しげでコロナ騒ぎなど忘れてしまいそう、と好評でした。とにかく大阪はこちら以上に暑いですからね。


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5月。不忍池に突然出現した宇賀神

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5月初めころ。東京アラートとかで、人が消えた東京ドーム周辺

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文京区内最大の楠の大木 ― やはり5月

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同上

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同上

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同上

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3月末~4月初めの不忍池

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同じ日の上野公園

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同じころの千鳥ヶ淵公園

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同上

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同上

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同上、ただしクリスマスローズ

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同上

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同じころの根津神社

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同上。柄杓がなくなり、流水になっていました。

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同じ頃。初めて自分で買った三つのおみくじ

実は3月末頃から4月にかけて立て続けに近くの三つの有名神社でおみくじを買ったのです。大人になってから自分でおみくじを買ったのはこの年になって初めてでした。いかなる風の吹き回しか?


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おみくじ比較

三つの神社で随分とそれぞれの個性が現れています。湯島天神では詩的で風情があり、神田明神では七福神らしくサービス精神が感じられ、根津神社では赤い色が使われず厳格で厳しい感じ。個人的には距離的にも近い湯島天神にもっとも親しみを感じますが。

 

最近のブログ更新について

  • 最初、当サイトでの本ブログは以前FC2ブログサイトで公開していた同名ブログの本年更新分からのみで、以前の更新は前のサイトに残されていましたが、前回の更新から、すべてのコンテンツをこちらのサイトに移転しました。一方、2007年以来、本ブログと同じはてなのブログサイトで更新を続けてきた『発見の発見』を、すべてFC2ブログサイトの方に移転しました。結果的にFC2ブログサイトの方は中身が入れ替わった形ですが、元の『発見の発見』は、昨年の更新分までは元のサイトに残していますので、一部重複する形になっています。
  • 別ブログの『発見の発見』は7月30日、『意味の周辺』は8月14日に最終更新を行っています。この2つのブログは、私が鏡像問題に取り組み始めて以来、互いに他方を転載したり、シリーズ記事の更新を他方に移転したり、ある意味内容が近づいてきましたので、一つに統合してもよさそうなんですが、やはり人は同時進行的に区別できることを考えるもので、同じ一つのテーマであってさえ、異なる二つの道筋で考察を進めることにも、大きな意味があるように思います。
  • 他にもブログを始めた初期のころから二つほどブログを書いていて、美術工芸とか発明に関わるようなことを、今も時おり更新しています。ただ当方の人生もこの期に及んで、これらの方向はいずれ立ち消えて行くことになりそうです。